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Japan
Uitgelichte illustratieshowcase
春の夜、ふと目覚めると、月明かりが襖に桜の影を描いていた。一枚、また一枚と散る花びらは、まるで時間そのものが形になったようだ。私は思う。この儚さこそが美の本質なのだと。
昔、祖父は茶碗を眺めながら言った。「このひび割れの中に宇宙が見える」と。当時は理解できなかったが、今ならわかる気がする。欠けたもの、壊れたもの、過ぎ去ったものの中にこそ、真実が宿るのだ。
京都の古寺で出会った老僧は、砂時計を逆さにしながら語った。「人間はみな、落ちていく砂粒のように必死に掴まろうとする。だが、流れゆくことを受け入れなければ、永遠に苦しむ」と。その言葉は、私の胸に深く突き刺さった。確かに、私たちは「永遠」という幻想に縛られすぎている。花が散るからこそ、その一瞬が輝くのではないか。
ある雨の日、駅前で傘もささずに佇む老人を見かけた。彼は降り注ぐ雨を全身で受け止めながら、「この冷たさが生きている証だ」と呟いた。現代社会では、私たちは不快や痛みを排除しようとする。しかし、禅の言葉にあるように「煩悩即菩提」――苦しみこそが悟りへの道なのかもしれない。
先月、大切にしていた茶碗を割ってしまった。最初は愕然としたが、次第に気づいた。欠け目から差し込む光が、今まで見えなかった模様を浮かび上がらせていた。金継ぎの職人は言う。「傷を隠すのではなく、輝かせるのだ」と。人生も同じだろう。失敗や後悔という「ひび」が、私たちを深く美しくする。
3月11日、私は被災地の桜並木を訪れた。津波に耐えた一本の老桜が、今年も淡い花を咲かせていた。地元の老婆は「この木は、散る度に強くなる」と笑った。自然は、無常という真理を静かに教えてくれる。
スマートフォンの画面越しではなく、直接風を感じたい。インスタントな情報ではなく、じっくり沸かしたお茶を飲みたい。効率化の波に溺れそうになる度、私は俳人・松尾芭蕉の言葉を思い出す。「不易流行」――変わらない本質と、流れゆく変化の調和こそが大切なのだと。
終電の車窓から見えるネオンは、まるで現代の籠り火のようだ。私たちはどこへ向かっているのか? 答えはない。ただ、歩みを止めなければ、いつかふと気づく瞬間がある。川端康成が『雪国』で書いたように、「無」の中にこそ、全てが存在するのだと。
今宵も桜は静かに散っていく。私はもう、それを惜しむことをやめようと思う。むしろ、この儚さを愛おしみたい。花びらが地面に触れるその音は、宇宙の鼓動のようにさえ聞こえる。
「わびさび」とは、不完全さを愛する心である。割れた茶碗、しわになった紙、錆びた鉄――それら全てが語りかけてくる。私たちは永遠ではないが、だからこそ、今という瞬間を煌めかせることができるのだ。